その旅は古いパリのアパルトマンの年老いた
コンシェルジュから手渡された一冊のお菓子のレシピ集から始まった。
ページを開いただけで南仏の太陽と自然の恵み、
フルーツとハーブの香気が私を呼んでいるようだった。


今日本へ帰ったら
一生後悔するに違いない・・・・
ラブリーな一冊が私を虜にした

セピア色に色あせた
ページをめくるとそこには
プロヴァンスのエスプリが・・・・。

 パリでの一年の語学留学を終え、そろそろ日本への帰国準備を始めていたある日のこと。私は住み慣れた古いアパルトマンの部屋で、天井窓を開ける太い紐をグイグイ引きながら、もうすぐ去るパリの街の匂いを吸い込んでいた。「メグミ、もうすぐお別れね。私の大切な宝物を記念にあげるわ」私の部屋を訪れて、一冊の本を手渡してくれたのはこのアパルトマンのコンシェルジュ、つまり管理人である。小さな管理人室にいつもちょこんと座っていて郵便物を手渡してくれる彼女は、ちょっと気位の高そうな老婦人だが、いまでは私と大の仲良し。彼女の心尽くしの贈り物が私のライフスケジュールを大きく変えることになるなんて・・・。

 コンシェルジュがくれたその一冊は古い古いお菓子作りのレシピ集だった。オリーブ色のモロッコ革に金彩をほどこした重厚な装丁はすっかり色あせてはいたが、手にずっしりと重い。セピアのしみがうっすらと浮き出た一枚一枚のページは、あのどこかノーブルでエレガンスな雰囲気を今もとどめているコンシェルジュの華やかだった時代を思わせる優雅な書体の文字で埋まっていた。
 第一章は・・・・・・「南仏プロヴァンスに伝わるお菓子」。そこには単に数々のパティスリーのレシピだけではなく、人間と自然のハーモニーが産んだプロヴァンスのエスプリが溢れていた。大地にずっしりと根をおろしたオリーブやアーモンドの木、数えきれないほど豊富なハーブ、そして数々の柑橘類やベリー、さくらんぼなど新鮮な素材がたっぷりと恵まれたプロヴァンス。そこは四季折々の自然の恵みをそのままお菓子にたくして楽しむ、シンプルで陽気なパラダイス。


プロヴァンスの田舎道を歩くと
ハーブのエッセンスが
空気を伝わって満ちてくる。


タイム、ローズマリー、オレガノ、ラベンダー、チャービル・・・・・・・・。プロヴァンスはハーブの宝庫。郊外をそぞろ歩くと、野生のハーブの香りが鼻孔をくすぐる。ハーブをたっぷりと生地に入れて焼き上げたクッキーやケーキ、パンは朝の食卓やティータイムを豊かなものにしてくれる。芳香とともに身体に優しいハーブティーも欠かせない習慣だ。
これらの素朴で野趣あふれる味わいはプロヴァンスの人々の気質にも似て、心休まるくつろぎを人々にあたえてくれる。


市場にあふれる色とりどりの
フルーツはお菓子になる日を
待ち焦がれている。


オレンジ、カシス、ラズベリー、ブルーベリー、洋なし、さくらんぼ、プラム、エトセトラ・・・・。プロヴァンスのお菓子がおいしいのは、この豊富な種類のフルーツが、季節ごとに市場にあふれているからだ。新鮮なフルーツを安くたっぷり手に入れたらリキュールも作る。キルシュ(さくらんぼのお酒)、ポワール(洋なしのお酒)、カルヴァドス(りんごのお酒)などは、フレッシュの果物にたっぷりと組合わせ、うまみを上手に引きだして、とびっきりのお菓子を仕上げるのだ。


古びた一冊の本のなかから魅惑の
プロヴァンスに私を誘う声が
確かに聞こえた。


ヴァンヴ広場の蚤の市でも、気難しそうな骨菫商を要領良く値切れるほどに、フランス語にも慣れた私。でも、今日本に帰るわけにはいかない。なぜなら、このレシピ集を読み始めて、すっかりプロヴァンスマジックにかかってしまったからだ。豊かなフルーツにハーブ、オリーブの緑と太陽の赤、お菓子のエビキュール(悦楽)の国はもうすぐそこだ。こうして私は内定していた日本での旅行社の仕事を蹴って、再び自らが旅人となる道を選んだ。


何よりも自然を大切にする人々に
本物の手応えを感じて・・・。


私が落ちついたのは小さなレストランを営んでいる大家族の家。パティシェを勤めるお祖母さんの作るフルーティーなデザートは大人気。彼女が今日から私の先生。時期はずれの青トマトをで作ったトマトジャムの味は最高!「メグミ、ジャムを塗ったパンをカフェオレに浸して食べるのがプロヴァンス流よ」。ジャムの滋味と共に、たくさんのおいしさに出会える幸福な予感が身体じゅうにひろがった。



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